それぞれの意思

8月29日(日)

いつもとは別の仕事で鶴舞へ。緊急事態宣言中につき終演が早く、開演は10時半まで繰り上げられていた。ひさびさの名古屋だったのですこしはやめに家を出たら30分ほど早く到着した。今月22日が店長の誕生日だったのでアメスピをひとつ買っていった。

バーカウンタできいた生音のクリアさにすこし感動した。打ち込み音源もこんなに臨場感あったのか、と日焼けのあとの袖口の境目をみつけたときような非日常を感じた。

鶴舞の街には暑いけどからっとした風がながれていて、千早交差点は人がほとんどいなかった。時勢のきびしさを感じる。だからこそ自分で選択して行動するのだとおもった。

行き過ぎればひとが死ぬかもしれない、来なければ生活が維持できない。そこには自己責任のうえでくる人たちとおかげで生活が首のかわ一枚でつながっている人たちがいることを改めて目の当たりにした。だからこそなるべく危険をおかさないように人一倍注意しているなとおもう。いまそれぞれにベストを尽くした結果、営業や休業を選択しているはずだから、他の場所での対応について自分のいるところと比較してああだこうだ言うのは違うとおもった。

ところでそんな状況だから、自分はギターをもってなかなか家からでられず、声をあげて歌うことが久しく無かった。仕事としていったのに撤収後、友達とふたりでギターを弾いては歌って踊った(ソーシャルディスタンスを保ちながら)。悩みごとや人生について話をきいたりもした。

帰ってすぐ寝てしまったもんだからいまかいた。