すこしのあいだ電車を待つ

9月5日(日)

今日もいっそバイトをやすむことにした。心が不調なのだ。悪くなって対処するまい、元気なときに働くべしと心と話し合った。

目覚めたのは9時頃、警察署からだった。ついに日頃の行いの悪さに目をつけられたか、と観念して子機を手に取ると、以前起こした事故の後処理について相談があったのだ。まあとんだ目覚めだとは思いつつ、その事故について自分はやんちゃなアンちゃんにぶつけられた身であったのですこし安堵していた。

いやなことを思い出して拗ねて寝た。見かねたのか親が魚のグッズを買いにいくよと連れ出してくれた。居心地はいいものではないけれどありがたかった。

昼を過ぎ何も手につかないまま頼れるひとに何となく電話し、日常が確認できるとすこしおちついた。自分はよわっちい人間でありながらすこし進歩したことを感じた。だって適切なタイミングに助けを求められることは過去からすれば革命なのだ。ただそういう時にかぎって気持ちが著しく表面化してしまうから、人を傷つけないか客観的になることが大切だ。

自分として似つかわしくないことだが8月から予定していた約束があった。その約束を果たすため実に半年ぶりくらいに電車にのり人のすくない夜の住宅街へ足を運んだ。君とはとても出会って日が浅くは感じられない、人へ信頼感をしめすバランス感覚がずばぬけているよと伝えたくなった。彼にとってもほんとうに友人であれたなら自分は嬉しいのだろうとおもうと同時に、このひとは魅力をだすのが巧いなとおもった。それはわかっていたからこそ、直前にシャワーを浴び、セットしてむかったのだがそれが自分なりの敬意だった。

帰り道、自分は幸せだとおもった瞬間このまま逃げたいという気持ちがムクムクと芽をだし、このまま飛び込めば終わってしまうのだと考えていた。これもまた夢との境目をみてしまったような感じで、突然で、反射的で、忘れていた頃にやってきた衝動に何ひとつ抵抗はできなかった。恐怖感と希死念慮のつなひきで前者が勝り乗車まで待つことができた。しかしながら辛く悲しいことを抱えていきることはどれだけ苦しいのだろうとおもうといたたまれない気持ちになる。衝動的であった自分は生きていることに疑問を拭えなかった。死態であることが必然に感じた。もったいねえなと思うのは決まってその30分後だ。

いま多治見駅では雨がつよく鳴り響いている。財布を失くしたかとおもったが家に忘れただけだった。これは救いだった。